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 源氏物語について 

 源氏物語は平安時代・11世紀の始め頃に書かれた長編恋愛小説です。全体は五十四帖あり、大きく分けて三部構成になっています。
 第一部は光源氏の誕生からさまざまな恋愛・体験をへて栄華を極めるまでの三十三帖「桐壺」から「藤裏葉」まで。第一部は光源氏の誕生からさまざまな恋愛・体験をへて栄華を極めるまでの三十三帖「桐壺」から「藤裏葉」までです。
 光源氏の晩年を描いた第二部は、「若菜上」から「幻」までの八帖です。そして、第三部は「匂宮」から「夢浮橋」までの十三帖で光源氏は登場しませんが、光源氏の子・孫たちの恋愛をつづるという壮大な物語です。
 特に最後の十帖は宇治が主な舞台になっており「宇治十帖」と呼ばれています。

 源氏物語あらすじ

◆ 第一部・あらすじ 桐壺」から「藤裏葉」

 身分もそれほど高くはなかった更衣・桐壷が、時の帝の寵愛を一身に受け、皇子(光源氏)を生みました。しかし、桐壺は他の妃たちのねたみを受け、光源氏三歳の時に亡くなってしまいます。帝は強力な後見のない皇子が皇位継承争いに巻き込まれた時には苦労すると考え、臣下の身分にし「一世源氏」の名を与えます。
 美しく聡明な皇子は、やがて人びとから「光源氏」と呼ばれるようになります。
桐壺が忘れられない帝は、光源氏十歳の時、桐壺によく似た藤壺の宮を入内させます。光源氏は、母に似ている藤壷を慕い、やがて許されぬ恋におちいり藤壺は源氏の子・冷泉帝を身ごもります。
 
 その後、光源氏は左大臣の姫君・葵の上を正妻として迎えますが、源氏が求める女性は幼くして死別した母・桐壺、やがて、光源氏は理想の女性を求めて数多くの女性とかかわりをもちます。
 
 藤壺の姪にあたる少女・紫の上。皇太子の未亡人の六条御息所、空蝉、夕顔、花散里、末摘花、桐壺帝に仕える六十近い老女官源典侍。そして源氏の政敵右大臣の娘で朱雀帝の婚約者になるべき朧月夜の君など。 右大臣は、陰謀を企んでいるとして、光源氏を追放し流罪にします。官位も剥奪され須磨に流されます。源氏二十六歳の時でした。 

 須磨では、都に残してきた女性たちに文を書きながら、失意の日々を送ります。都で親しかった人々も訪れないなか、頭中将だけは自分の政治生命を賭して、須磨まで訪ねて来てくれます。その友情に、源氏は慰められ涙するのでした。
 須磨から明石に移り、そこで出会ったのが入道の娘・明石の君。やがて、都では朱雀帝が病いを患い、政敵の大后は重い病に伏し、太政大臣は亡くなってしまいます。
 須磨、明石に流れてから二年四ヶ月、朱雀帝は周囲の反対を押し切って源氏を召還します。そして、朱雀帝が退位し、源氏の子・冷泉帝が即位すると内大臣に返り咲き、権力の中枢に君臨します。その後、出生の秘密を知った冷泉帝から「准太上天皇」という位を授かり、この世の栄華のかぎりを尽くします。
 光源氏は、六条御息所から譲り受けた六条院をこの世の極楽浄土のごときに造り替え、今までかかわり合った女性を迎え入れ、豪奢な生活を送ります。 



◆第二部・あらすじ  「若菜上」から「幻」

 源氏四十歳の春、兄朱雀院はその娘女三の宮の婿選びに腐心しますが、後見人として実力のある源氏に決めます。源氏は一旦は辞退しますが、十四歳の女三の宮をもう一度理想の女性に養育してみようと思い決意します。そのことによって正妻の座を追われた紫上は病に臥し、しだいに六条院は内部崩壊していきます。

 その後、女三の宮は柏木と不義密通をし、罪の子・薫を身ごもる。源氏は、藤壺と源氏との不義の子冷泉帝のことを思い、因果応報に戦慄します。やがて、女三の宮は出家、そして、紫上も源氏への愛も見限り四十三歳で亡くなります。源氏すでに五十一歳、六条院に一人残され傷心のうちに、出家の準備をすすめます。

◆ 第三部・「宇治十帖」あらすじ

 紫式部について 
 紫式部の父は越後守藤原為時、母は藤原為信女で、天延元年(973)頃に誕生したと思われます。両親は歌人・学者の流れをくむ家系で、幼少のころより文才にすぐれていたといいます。長徳4年(998)頃に藤原宣孝と結婚して一女を産んでいますが、長保3(1001)年には夫と死別、その後に『源氏物語』を書き始めたとされています。
 寛弘2(1005)年か翌年には、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)のもとに女房兼家庭教師役として仕えたと言われています。この宮仕え中の日記が「紫式部日記です。この日記には、寛弘5年(1008)に「源氏物語」と思われる物語の記述があり、そのころには源氏物語がある程度完成していたと考えられます。いつまで宮仕えをしていたかは不明ですが、40歳余りで亡くなったとされています。
 紫式部ゆかりの地
■廬山寺
 京都御所に程近い廬山寺は、紫式部の邸があった場所とされています。
ここは、紫式部の曽祖父である歌人・藤原兼輔の邸があった場所です。紫式部はここで、『源氏物語』を執筆したといわれています。
 物語で、光源氏が空蝉と出逢った紀伊守邸は、紫式部の邸がモデルになったようです。境内には紫式部邸顕彰碑が立てられ、「源氏の庭」も造られ、桔梗の名所として知られています。 
■上京区寺町通広小路上ル1丁目北ノ辺町397
■市バス 府立医大病院前下車

 紫式部の墓所は、北大路通堀川下るの通りからも奥まった目立たない所にひっそりと建っています。右側には「小野篁卿墓」があります。
■北区北大路堀川下る  
■市バス 北大路堀川下車 徒歩3分

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