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坂本龍馬歴史年表


     近代日本の礎をきずき、30余年の短い人生を駆け抜けた「坂本龍馬」の生涯

            
          龍馬史跡めぐり     幕末史跡めぐり
  坂本龍馬歴史年表
1835年(天保61115日) 坂本龍馬、土佐藩郷士(下級武士)坂本家の次男として生まれる。
1853年(嘉永663日)龍馬(19歳) ・剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い、4月頃に江戸に到着、北辰一刀流の千葉定吉道場  の門人となる。
・12
月、軍学家・思想家である佐久間象 山の私塾に入学。

・アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる黒船4隻が浦賀沖に来航江戸幕府に開国を迫る。
将軍徳川家慶が死去。家定が13代将軍に就任する。
18541月(安政元年)龍馬(20歳) ・15カ月の江戸修行を終えて623日土佐へ帰国。
ペリー艦隊が再来、重ねて開国を要求。日米和親条約が締結され、いわゆる「鎖国」体制は終焉した。
・同年、ロシア帝国と日露和親条約を締結。国交を樹立した幕府での体制再編のため安政の改革を行い、
 勝海舟らを登用する。
1855年(安政2年)龍馬(21歳) 12月父・八平が他界。
1856年(安政3年)龍馬(22歳) ・7月、再度の江戸剣術修行を申請して9月に江戸に到着、武市半平太、大石弥太郎らとともに築地の土佐藩 邸中屋敷に寄宿。
1857年(安政4年)龍馬(23歳) ・藩に一年の修行延長を願い出て許される。
1858年(安政5年)龍馬(24歳) ・1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。 9月に土佐へ帰国。
4月、井伊直弼が大老に就任、6月日米修好通商条約調印。
7月将軍家定死去。
・9
月政治的弾圧を行い吉田松陰、橋本佐内、頼実三樹三郎らを処刑する「安政の大獄」が行われる。
10月将軍家茂宣下。
1859年(安政6年)龍馬(25歳) ・土佐藩主山内容堂隠居を余儀なくされるも、実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と  進められた。
18603月(安政7年・万延元年)龍馬(26歳) ・水戸藩や薩摩藩の浪士が井伊直弼を暗殺する「桜田門外の変」が起こる。井伊の死後、尊皇攘夷運動が台 頭し幕府の権力が失墜していく。
1861年(文久元年)龍馬(27歳) ・8月、武市半平太は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成、龍馬は9番目、国元では筆頭と して加盟。
1862年(文久2年)龍馬(28歳) ・1月に長州萩を訪れて久坂玄瑞と面会、2月に土佐に帰着。
・3
月、脱藩していた沢村惣之丞の手引きを受け脱藩
老中安藤信正が坂下門外で襲撃される「坂下門外の変」が起こるなど、長州藩や薩摩藩などで尊皇攘夷派 が力をつけてくる。土佐では48日に吉田東洋が暗 殺される。
4月23日「寺田屋騒動」が起こる、薩摩藩・島津久光が、幕政改革を志して兵を率いて上京したが、薩摩の尊  王派有馬新七らは寺田屋に集結、これを抑えようとし た薩摩藩の大久保一蔵らと同士討ちになった。
龍馬は7月頃に大坂に潜伏、8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿。
129日、松平春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた龍馬は海舟宅 を訪問して、海舟の 門人となった。
1863年(文久3年)龍馬(29歳) ・2月、海舟は山内容堂に取り成して、龍馬の脱藩の罪は赦免される。海舟が進めていた海軍操練所設立の ために奔走、海軍熟熟頭をつとめる。土佐勤王党の 岡田以蔵を海舟の京都での警護役にする。
・ 「八月十八日の政変・七卿落ち」京都で勢力を拡大していた過激な尊皇攘夷派を一掃。
 これを契機に土佐藩では土佐勤王党が弾圧され武市瑞山も捕らえられる。翌年切腹。
1864年(元治元年)龍馬(30歳) ・2帰国延期申請が拒否され再度の脱藩をする。5月、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(おりょう)と出会う。
65日、三条小橋の池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩の尊皇攘夷派を新撰組が襲撃する池田屋事件  が発生。
719日、「禁門の変・蛤御門の変」。池田屋事件で藩士を殺された長州藩が挙兵し、蛤御門で会津・桑名  藩と衝突、薩摩藩の援軍で長州藩は壊滅する。のちに 幕府は長州藩を朝敵として第一次長州征伐を行う。
81日に龍馬はおりょうと内祝言を挙げる。
・ 8
月中旬頃に龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会。
1865年(慶応元年)龍馬(31歳)

・3月、龍馬の神戸海軍操練所は廃止。塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は5月頃に龍馬らに出資して「亀山 社中」を結成させる。
5月、土方久元と龍馬が長州の桂小五郎を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させ、中  岡慎太郎は薩摩に赴き西郷に会談を応じるよう説いたが実現せず。
8月、長崎のグラバー商会から薩摩藩名義での長州藩への買付け斡旋に成功。 これは同時に薩長和解の  最初の契機となった。
9月、長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という大久保一蔵の書簡を、  長州藩に届けるという重大な任務を龍馬が任される。

1866年(慶応2年)龍馬(32歳) ・1月、京都薩摩藩邸内で龍馬が立ち会い、木戸孝允・西郷の間で薩長同盟の密約が締結された。
・1月23日、龍馬は長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋で、伏見奉行の捕り手に襲われる。龍馬 は両手指を斬られ屋外に脱出、負傷した龍馬は材木 場に潜んでいたが、薩摩藩に救出された。
2月、西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩に出立した。この旅は龍馬とおりょうとの蜜月旅行となり、 これが日本最初の新婚旅行とされている。
2月、第二次長州征伐が行われるが、西洋兵学の訓練をした長州藩に圧倒される。
7月、将軍家茂が大阪城で病死、長州征伐は停戦協定が結ばれる。
1867年(慶応3年)龍馬(33歳)

・113日に龍馬と土佐藩参政の後藤象二郎が会談。土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の  外郭団体的な組織とすることが決まり、亀山社中は「海援隊」と改称した。
6月藩船で長崎から兵庫に向かう旅で「船中八策」を書き上げ、後藤象二郎に渡す。
1013日、徳川慶喜は二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日の上奏を経て、15日に  勅許が下された。

1115
 定宿にしていた河原町蛸薬師の近江屋で中岡慎太郎と歓談中に十津川郷士と名乗る男数人に襲われる。 龍馬は即死に近く、中岡は翌々日に死亡。京都霊山 護国神社に葬られる。
129日王政復古の大号令

1868年(慶応4年・明治元年) ・1月鳥羽伏見の戦い
4月江戸城開城

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