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平清盛 ゆかりの地をめぐる
八坂神社
平清盛略歴
元永元年(1118年)
鳥羽天皇(白河院政)
伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として生まれる。生母は祇園女御とも言われている。
大治4年(1129年)12歳
崇徳天皇(鳥羽院政)
幼少期は祇園女御の庇護の下で育てられたといわれる。 12歳で従五位下左兵衛佐に叙任される。
久安3年(1147年)30歳
近衛天皇(鳥羽院政)
平時子との間に宗盛が生まれる。6月祇園闘乱事件起こる。
久安5年(1149年)32歳 安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にして西国に勢力を拡大。
仁平3年(1153年)36歳 父・忠盛の死後に平氏一門の棟梁となる。
保元元年(1156年)39歳
後白河天皇
保元の乱。後白河天皇について勝利をもたらし播磨守となる。
平治元年(1159年)42歳
二条天皇(後白河院政 )
平治の乱。源義朝を破り、武家政権樹立の礎を築く。
長寛2年(1164年)47歳 二条天皇に仕えるが、後白河上皇のためにも蓮華王院を造営
仁安3年(1168年)51歳
六条天皇(後白河院政 )
病に倒れ出家.。回復後は福原に別荘を造営、厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。
承安元年(1171年)54歳
高倉天皇(後白河院政 )
娘・徳子が高倉天皇に入内、平氏一門は隆盛を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめた。
治承元年(1177年)60歳 6月に鹿ケ谷の陰謀が起こる。俊寛らを鬼界ヶ島へ流罪に処す。
治承3年(1179年)62歳 7月、重盛が42歳で病死。
11月、治承三年の政変。清盛は関白など反平氏一派を解任し、11月20日には後白河法皇を鳥羽殿に幽閉する。
治承4年(1180年)63歳
安徳天皇(後白河院政 )
高倉天皇が安徳天皇に譲位。
反平氏勢力が勃発。4月に後白河法皇の第3皇子以仁王の挙兵。
8月には伊豆に流されていた源頼朝が挙兵。
9月には信濃国において木曾義仲が挙兵。平維盛を総大将とした大軍を関東に派遣したが、富士川の戦いでは交戦をせずに撤退
養和元年(1181年) 清盛は京都を中心に新体制を築こうとしたが、熱病に倒れた。閏2月4日に九条河原口の平盛国の屋敷で死去した。享年64。
『平家物語』では清盛が死に臨んで「葬儀などは無用、頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したという。
寿永2年(1183年) 源義仲に攻められ、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅した後、安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ち。
寿永4年(1185年)
後鳥羽天皇
壇ノ浦の戦いで平氏滅びる。安徳天皇は崩御、入水した建礼門院は助け上げられ大原の里で余生を送る。
 
 八坂神社は、古くから厄除けの神社として信仰を集めている。久安3年(1147年)、清盛の郎党と祇園社の神官が小競り合いとなり、郎党の放った矢が宝殿に当たり負傷者が出たいう祇園闘乱事件が起こったところでもある。


左)境内にある平忠盛燈籠
には逸話が残っている。
 駒札によると「永久年間の頃(12世紀)、白河法皇が祇園女御の許に赴こうとしてこの辺りを通られた時、折しも五月雨の降る夜で、前方に鬼のようなものが見えたので、法皇はお供に従っていた平忠盛にあれを討ち取れと仰せられたが、忠盛はその正体を見定めての上と、これを生け捕りにしたところ、祇園の社僧が油壷と松明とを持ち灯籠に燈明を献ろうとしていたところだった。雨を防ぐために被っていた蓑が灯の先をうけて銀の針のように見えたのであった。忠盛の思慮深さは人々の感嘆するところであったという。この灯籠はその時のものといわれている。」
この逸話から、白河法皇は忠盛の思慮深さを褒め、祇園女御を忠盛に下賜。しかも、そのとき女御はすでに懐妊しており、「清盛は忠盛の子にあらず、まことに白河院の皇子なり」と伝わる。
六波羅蜜寺
 
 六波羅蜜寺は平安時代中期・天暦5年(951)空也上人により開創された。
平家没落の時に兵火を受け、諸堂は類焼したが本堂のみ焼失を免れた。


左)境内にある平清盛の供養塔
 六波羅の地は、清盛の祖父・正盛が邸宅を構えたため平家一門が多く住んだ。清盛の時代には平氏政権の中心となるが、後に清盛は西八条邸を造営して政治の拠点を移した。しかし、平氏一門の軍事力の拠点は引き続きこの地に残った。 境内には清盛の供養塔や平清盛坐像も残されている。
西八条第跡
西八条第(にしはちじょうてい)は、仁安元年(1166)頃に現在の梅小路公園付近に造営された邸宅で、鴨東の六波羅邸に対して西の交通の要衝に営まれ、周辺には頼盛・重盛・宗盛など一族が邸宅を構えていたという。清盛は出家後、福原に在住することが多く、この邸宅には主に妻時子が住した。治承3年(1179)に建礼門院徳子が後の安徳天皇を伴って行啓したおりには感涙にむせんだといわれる。清盛が没した翌々日の養和元(1181)年閏2月6日、放火により大小50あまりの建物が焼亡したとされる。さらに都落ちする際に、平氏自らが放った火で豪壮な邸宅はあますところなく焼失した。
若一神社
若一神社(にゃくいち)は、平清盛の造営した西八条第の鎮守社として紀州熊野の若一王子の御霊を祀ったのが始まりとされる。以後清盛の勢威がのびたことから開運出世の神として崇められる。社前の清盛手植といわれる大楠は西八条第が焼失した際も焼け残ったといわれる。
境内には、清盛の熱病を冷ますために使ったという御神水があり、今なお名水として近所の人たちが汲みに来る。
厳島神社
平清盛が安芸の厳島神社を勧請、攝津の国莵原郡兵庫築島に一社を設け、後に母・祇園女御のために祇園女御を合祀した。後世になって現在の京都御苑の南西にあった九条邸に移転された。鳥居は、唐破風形の鳥居として有名。京都三珍鳥居の一つとされる。。
祇王寺

草庵には祇王・祇女・刀自・仏午前の木像が安置されている。苔の庭は秋の紅葉の頃は特に風情がある。
左が祇王・祇女・母刀寺の墓とされる宝筐印塔。右が清盛の供養塔と言われる五輪塔。 白拍子の名手・祇王は平清盛に寵愛され西八条邸に住んでいたが、若き白拍子仏御前の出現で清盛の寵愛が薄れ、母刀自・妹祇女と共に邸を追い出される。しかし、ある日清盛が仏御前のために舞を舞ってなぐさめめよと呼びつけられた折に「仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なりいずれも仏性具せる身を隔つるのみこそ悲しけれ」と歌い舞うと、並居る諸臣も涙を絞ったと言う。
その後、祇王は21歳で尼となり嵯峨野祇王寺で母刀自・妹祇女と念仏三昧の生活をおくる。そこを訪れたのは無常を感じ尼になった仏御前、その後四人一緒に籠って往生を遂げたという。
寂光院
建礼門院徳子は、高倉天皇の中宮で安徳天皇の母。平家の都落ちに同行し、壇の浦で安徳天皇を追って入水するが、源氏に助けられる。京に戻って、長楽寺で剃髪。安徳天皇と平家一門を弔い余生を大原寂光院で過ごす。
後白河法皇が大原を訪ねた時、平家の栄枯盛衰を体験してきた建礼に「あなたは目前に六道を見たのでしょう。」と涙を流したという。墓は寂光院の隣の大原西陵。
清盛と関わる人物 ゆかりの地
瀧口寺


平重衝に仕える滝口(御所の警備役)の武士斉藤時頼は、建礼門院付の雑女・横笛に恋をするが父に交際を反対されて出家、嵯峨野のこの寺で修行をする。横笛が自分の本心を伝えたくて尋ねてくるが出家の身であると追い返し、女人禁制の高野山に移る。その後、横笛も出家して病に伏して死去したと知った滝口入道はますます修行に励み、「高野聖」と呼ばれるようになった。
三十三間堂 法住寺
 三十三間堂  法住寺殿跡の碑 法住寺 
法住寺殿跡・三十三間堂
保元3年(1158)、後白河天皇は二条天皇へ譲位、この地に院御所・法住寺殿を造営して約30年にわたり院政を行った。院御所は、東西は東山山麓から鴨川まで、南北は八条坊門小路から六条小路に及ぶ広大な地域。しかし、寿永2年(1183)11月、木曽義仲の夜襲にあい焼失、三十三間堂のみがその時代をしのぶ姿を残している。三十三間堂は長寛2年(1164)、後白河上皇が法住寺殿の敷地の一角に、平清盛に命じて南北に118mもの長い観音堂を建立し蓮華王院と称したのが始まり。
法住寺
平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後法住寺殿として院政が行われたが、寿永2年(1183)に焼失。そののち後白河上皇がなくなると御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治期に御陵と寺が分離され現在にいたる。身代不動明王像は、義仲の夜襲のさいに上皇の身代わりとなったと伝えられており、現在も毎年11月15日には不動会がいとなまれている。
新熊野神社
後白河上皇は熊野詣の信奉者で、法住寺殿の造営にあわせて、その鎮守社として永暦元年(1160年)、法住寺殿南殿の南側に紀州の熊野三山の神を勧請して、祀り新熊野神社を造営。
「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野というのがその由来。以来、天皇や公家も参詣され繁栄したという。境内にある大樟は後白河上皇がお手植されたといわれ、健康長寿の「お腹の神様」として信仰されている。
新日吉神社
新日吉神社は、永暦元年(1160)、後白河上皇が院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、比叡山の鎮守社の日吉社を勧請し新日吉社として造営。「新日吉社(いまひえしゃ)」と称されていた。皇室からの崇敬も篤く栄えたが、応仁の乱など、戦火により社殿が荒廃、衰退した。その後、度々再建が行われて、現在の本殿は天保6年(1835)に再建された建物。
長講堂 白河院並びに法勝寺跡 安楽寿院
長講堂は後白河上皇(1127〜92)の持仏堂で、もともとは六条御所(西洞院六条)にあった。長講堂には膨大な荘園が附属しており、上皇の没後も王家の経済基盤として重視されたが、火災などによりたびたび移転し、天正年間に現在地に移転した。 白河院は、藤原氏によって代々受け継がれてきた藤原良房の別荘で、藤原師実の時、白河天皇に献上され、承保2年(1075)白河天皇によってこの地に法勝寺が建立された。 鳥羽上皇が鳥羽離宮の東殿に保延3年(1137)に御堂を建立、院政を行った。