@古高俊太郎邸址 ■下京区河原町四条上る一筋目東入る南側 |

古高俊太郎(1829〜1864)は近江出身の尊皇攘夷派の志士で、湯浅吉右衛門と名乗って薪炭商を営んでいました。元治元年6月5日に新撰組に捕らえられ、池田屋騒動の契機になったといわれています。
現在は京料理「志る幸」があり、白味噌仕立ての料理は京都人も絶賛する逸品です。 |
A中岡慎太郎寓居地 ■下京区河原町四条上る東側 |

中岡慎太郎(1838〜1867)は、坂本龍馬と同じく土佐藩郷士で、薩長連合を働きかけるなどの活躍をしました。ここは土佐藩御用達書林菊屋跡地で、現在はあぶらとり紙専門店「象」があります。 |
B坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地 ■下京区河原町蛸薬師上る西側 |
 龍馬は京都で海援隊本部のあった酢屋を定宿にしていましたが、幕府から追われていたため、土佐藩の出入り商人であった醤油屋近江屋に移っていました。
慶応3年(1867)11月15日、ここの二階で中岡慎太郎と大政奉還後の政局について論じていたところを、刺客に襲われ暗殺されました。二人はともに土佐藩の出身で薩長連合、大政奉還の功労者でありました。龍馬33歳、中岡30歳。王政復古の大号令がでる一ヶ月前の無念の最期でした。今、この場所にはコンビニがあり龍馬グッズも売っています。 |
C本間精一郎遭難地 ■下京区木屋町通四条上る東側 |
本間精一郎(1834〜62)は、越後国出身で尊王攘夷の急進派として行動しましたが、
酒に身を持ち崩して志士仲間の反感を買い、文久2(1862)年閏8月20日、先斗町からの帰途に薩摩・土佐藩志士に暗殺されました。この石標は本間精一郎遭難の地を示すものです。 |
D土佐藩邸跡 ■中京区木屋町通蛸薬師西南角 |
 江戸初期から明治4(1871)年まで土佐藩主山内家の藩邸があった場所、幕末には志士たちの活躍の拠点でした。
土佐藩主山内容堂(1827〜72)は、坂本龍馬・中岡慎太郎等の尽力で薩長同盟が成立し、後藤象二郎(1838〜97)の進言を入れて大政奉還を建白するに至ります。ここには、高瀬川を開削した角倉了以の記念碑も建てられています。
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E土佐稲荷(岬神社) ■中京区木屋町通蛸薬師西入る北側 |

当初は、鴨川の中洲の岬に祠を建てたのが由来とされますが、江戸時代初期には土佐藩邸内に移され、土佐稲荷と呼ばれ産土神として広く信仰を集めました。坂本龍馬や中岡慎太郎らも詣でたと思われます。明治維新後は、近隣の氏子たちによって社殿が建てられました。
境内には龍馬の写真や銅像が置かれ参拝者で賑わっています。
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F坂本龍馬・妻お龍寓居跡 ■中京区木屋町通六角下る東側 |

坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)は、青蓮院宮に仕える医師楢崎将作・貞の長女として生まれますが、父の死去でこのあたりに移住したとされています。
こののち一家は離散し、お龍は単身七条新地の店に入り、母と妹は、東山区本瓦町付近の土佐亡命志士の所に住み込みで働きました。その縁で龍馬とお龍は出会うことになります。龍馬が「まことにおもしろき女」と愛したお龍のゆかりの地として石碑が建てられています。
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G酢屋・坂本龍馬寓居跡 ■中京区河原町通三条下る一筋目東入北側 |
 
坂本龍馬は、江戸に出て軍艦奉行勝海舟(1823〜99)の門に入り、慶応2(1866)年薩長同盟締結するなど活躍しますが、京都滞在中は、材木商酢屋(中川嘉兵衛方)に投宿し、ここを海援隊屯所としました。
現在この酢屋の前の道は「龍馬通」ともいわれています。 |
H池田屋騒動址 ■中京区河原町通三条東入る北側 |
 薩摩藩と会津藩が手を組み、京都での倒幕勢力の中心であった長州藩の勢力を一掃した「八月十八日の政変」(文久3年8月18日)後、京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊皇攘夷派が圧迫されます。
長州・土佐・肥後などの志士たちは勢力回復をめざし、中川宮や京都守護職松平容保の暗殺計画を企てますが、元冶元年(1864)6月5日、三条木屋町にあった池田屋において会合中に新撰組に襲撃され志士30余名の死傷者をだします。現在は「池田屋」という居酒屋になっており、内部には大階段も再現されています。 |
I吉村寅太郎寓居址 ■中京区木屋町通三条上る東側 |
 吉村寅太郎(1837〜63)は、土佐藩出身の尊王攘夷派の志士。武市半平太に剣術を学び勤王党に加盟。文久2年(1862)に龍馬とともに脱藩して国事に奔走しますが寺田屋で捕えられて土佐に送還されます。その後、再度上洛して侍従中山忠光らと天誅組を組織し倒幕の兵をあげますが,八月十八日の政変で情勢が一変、幕府軍の攻撃を受け大和国吉野で戦死。ここは、吉村寅太郎の京都での寓居の跡で武市瑞山寓居の隣です。
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J武市瑞山先生寓居跡 ■中京区木屋町通三条上る東側 |
 
武市瑞山(半平太)は、土佐藩の郷士で江戸に学び尊皇攘夷を志し、安政7年(1860)に土佐勤皇党を結成。藩内の主流であった公武合体派を退け土佐藩を尊皇攘夷に導きます。文久2年(1862)には山内容堂に従い上洛し、京都留守居役となりますが、山内容堂は再度実権を取り戻すべ土佐勤王党の粛清に乗り出し、8月18日の政変後の9月に土佐で投獄され、慶応元年(1865)切腹を命じられます。
隣には「ちりめん洋服発祥の地」石標がある。 |
K佐久間象山寓居址 ■中京区木屋町通御池下る東側 |
 
佐久間象山(1811〜64)は、信濃国松代藩出身で兵学蘭学を学び、江戸で勝海舟・吉田松陰等に砲学を教えました。
開国論を唱え、嘉永7(1854)年吉田松陰の米艦乗込事件に連座し、その後8年間松代で蟄居しました。元治元(1864)年3月幕府の命令で上京し、開国論を唱えます。同年5月象山最後の住居であるこの地に移りますが、同年7月11日山階宮家よりの帰途に暗殺されました。 |
L桂小五郎・幾松寓居跡 ■中京区木屋町通御池上る東側(旅館幾松)
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 木戸孝允(1833〜77)は、桂小五郎といった長州藩士時代、花街三本木の芸妓幾松と恋仲となり、時に新撰組に追われながら苦難の時代を過ごしました。二人は鴨川西岸に住み、蛤御門の変のあとには新撰組に追われて、幾松の機転で助かったこともあるといいます。
幾松は維新後、木戸公夫人松子となり、明治10(1877)年木戸が亡くなると、松子は剃髪して翠香院と号し京都に住み、明治19(1886)年44歳で没しました。現在、幾松は料理旅館として営業しており、幾松ゆかりの部屋も残されています。 |
N大村益次郎卿遭難碑 ■中京区木屋町通御池上る西側
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周防国出身の大村益次郎(村田蔵六・1825〜69)は、緒方洪庵等に医・蘭学を学んだ後、江戸に出て幕府の講武所教授等を歴任します。後に長州藩に仕え軍制改革を指導し、第2次長州征伐・戊辰戦争において卓越した指揮を行いました。
新政府では兵部大輔として近代兵制の樹立に尽力しますが、明治2年(1869)9月4日関西の軍事施設視察時に、反対派浪士に襲われ、11月5日大阪で亡くなります。 |
O象山先生遭難碑 ■中京区木屋町通御池上る西側 |

元治元年(1864)7月11日騎馬で山階宮家よりの帰途、この地で暗殺された。大村益次郎卿の碑と並んで建てられている。 |
P長州屋敷跡・Q桂小五郎像 ■中京区河原町通御池西入る(京都ホテル内) |
 
長州藩・毛利氏の藩邸跡で幕末維新時の重要な政治的拠点でした。元治元年の蛤御門の変では、会津・薩摩の幕府朝廷軍に敗れた時には、この邸内に自ら火を放ち逃れたが、火は市内に延焼して数日間にわたって燃え続けました。
明治維新後は、この地には勧業場が設立され、現在は京都ホテルとなっています。ホテルの西側には桂小五郎の像も建っています。
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R木戸孝允旧跡 ■中京区土手町通竹屋町下る(石長本館松菊園前) |

維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833〜77)は、明治維新後に近衛家邸を買い取り京都別邸としました。
明治10年ここで危篤状態になった時には、明治天皇が見舞いに訪れましたが5月26日に亡くなります。昭和18年(1943)京都市に寄贈され、現在は市職員厚生施設となっています。敷地南端部分には、孝允が没した木造二階建て家屋が残されています。 |