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粟田祭 10月(体育の日) |
祭の始まり |
粟田神社は貞観18年(876)に疫病除けの祈願を行った際に「我は大己貴神なり。祇園の東北に清き処あり。その地は昔、牛頭天王(ゴズテンノウ=素戔鳴尊)に縁ある地である。そこに我を祀れ」との神託があり創建されたといわれています。
粟田祭は毎年10月に行われる粟田神社の祭礼。長保元年(1001)に始まったと言われる古い祭で、応仁の乱で祇園会が中止された時には、粟田祭がその代わりをしたともいわれています。体育の日前日の「出御祭(おいでまつり)」「夜渡り神事」。体育の日の「神幸祭(しんこうさい)」「還幸祭(かんこうさい)」、そして15日の「例大祭」までの神事・行事を総称して粟田祭と呼びます。 |
夜渡り神事 |
体育の日前夜に執り行う「夜渡り神事」は、知恩院の黒門前にある「瓜生石」(うりゅうせき)の周りを順拝する「れいけん」と呼ばれる神事を執り行うもの。
「瓜生石」は貞観2年(860年)に、この石に一夜にして瓜が実り「牛頭天王」の文字が記され、感神院新宮(粟田神社の旧社名)の金の御札が輝いていたので,牛頭天王を祭神とする粟田神社にこの瓜を納めたといわれています。
粟田神社を出発した行列が瓜生石に到着すると、知恩院の僧侶がおごそかに階段を降りて、神霊を迎え入れる儀式が神職・僧職の合同で執り行われ、その後行列は松明を先頭に剣鉾、大燈呂が町内を練り歩いて粟田神社へと帰って行きます。 |
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十二個の提灯を山型に並べた「十二灯」(じゅうにん)が、町内で飾られ行列します。 |
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町内には18基ほどの剣鉾があり、家々に飾られます。 |
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松明に導かれた行列は、知恩院黒門前の瓜生石に到着すると阿古陀鉾と地蔵鉾が瓜生石の周りを三度巡拝する「れいけん」の神事を執り行います。 |
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やがて、知恩院の黒門が開かれ、僧職がおごそかに階段を降りて来ます。れいけん祭は、神仏習合の行事で、神官と僧侶が一緒に神霊を迎え入れる儀式を執り行います。行列は町内を練り歩いて粟田神社へと帰って行きます。
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夜渡り神事に従って行列する風流灯籠は、平成20年に資料を基に復興したもので「粟田大燈呂(あわただいとうろ)」 と呼ばれ行列に華を添えています。 |
神幸祭 |
神幸祭は御神体が遷された神輿が氏子区域を渡御する神事で、行列の先頭を行く「剣鉾」は巡行路の清祓いをします。剣鉾は祇園祭の鉾の原型ともいわれるもので、長さ6〜7mの竿に剣と鈴が取り付けられ、剣鉾差しは腰につけた差し革で支え、バランスを取りながら練り歩きます。行列は、猿田彦台車、眞榊台車、剣鉾、神輿、大燈呂が続きます。 |
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猿田彦台車と眞榊台車が先頭を行きます。 |
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粟田神社に現在伝わる剣鉾は18基、いずれも精緻な細工が施されています。 |
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舁き出された神輿は拝殿回しの後、参道を舁がれ町内を渡御します。 |
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剣鉾は剣先・神額・錺(かざり)・鈴(りん)で構成され棹につけて用いられます。高さは6〜7メートル、重さは約30キロ。 |
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鉾差しは、腰につけた差し革で剣鉾を支え、バランスを取りながら練り歩く伝統的な技能。剣鉾の上部に付けられた鈴を一定のリズムで鳴らせるまでには3年前後はかかるとか、やがて剣鉾は青蓮院の門前を通り瓜生石を廻ります。 |
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神輿は青蓮院門跡の中にはいって神仏習合の神事が行われる。行列は氏子圏内を廻り疫病退散を祈願します。 |